2013年7月23日火曜日

怒りは愛情かもしれないが、それが伝わるとは限らない

特に場所は問いませんが、
誰かが誰かに対して怒っているいるシーンを見たことが無い人はいないと思います。


町中で見かけるようなタイプは、
クレームによる怒りが多いでしょうか。

コンビニでタバコの購入にボタンを押す必要が出てきてから、
それに対してアルバイトの方に怒っているシーンを見かけたことがあります。


オフィスで見かけるパターンは、
何らかの失敗に対して上司や先輩が怒るパターンでしょうか。

怖い上司にビクついたことがさらなる失敗につながり、
さらに怒られるというマッチポンプを見たことがあります。
(この例では上司の方が移動となりました。)


どちらにも共通しているのは、
"何らかの希望や期待を裏切られたことによる失望から発露した感情=怒り"でしょうか?

強い怒りの背景には強い希望や期待が込められているため、
これらの怒りは愛情表現として見ることができるのだと自分は思います。


まあそれはいいです。

怒りを向けられたことで成長した事例なんてたくさん出るでしょうし、
そこに異論はありません。

問題はその成長の事例の影に隠れた、
マイナスとなった事例はどれだけあるのかという話です。


学生の頃読んだきりなのでちょっと曖昧ですが、
ブラックジャックに紹介したい話がありました。

生徒をやたら厳しく怒り、叱る教師が登場するのですが、
その教師は単に血の気が多いというわけではありません。

その教師はその叱責をバネに一生懸命勉強欲しいという、
いわゆる生徒への*愛情*でそのような態度をわざととっていたのです。

でも生徒の一人が叱責に耐えられなくなってしまい、
自殺を図ろうとしてしまうというお話です。


フィクションの話ではありますが、
これを起こり得ないと言い切れるでしょうか。

自分にはそう思えません。

例え愛情が根源にあったとしても、
それが伝わらない例なんてたくさんあるのではないでしょうか。


このような一方通行の愛情を何と言うか、
私達は"ストーカー"と呼んでいなかったでしょうか。

自分はこれも、
ストーカーの変種だと捉えています。

ストーカー行為を続けていくと、
結果はどうなるでしょうか。

少なくとも、
ハッピーエンドにはならないのではないでしょうか。



まとめます。

怒りは愛情から発露することはあり得ます。

ですがそれでストーカー行為を働くのはやめましょう。

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